ゴーンの逃亡劇とIFRSの離脱規定

ゴーンの逃亡劇とIFRSの離脱規定

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  まるで映画のような日産自動車の前会長のカルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)の脱出劇は、相当にテレビ視聴率に貢献したであろう。そして、その画面の中でゴーンはすっかり悪者である。そもそも、ゴーンの批判する我が国日本の刑事司法制度の問題と逃亡とは切り離して考えるべきで、不正に出国すること自体が違法行為である。出国手続きをしないで保釈の身でありながら国外へ逃亡したことは決して許されることではない、これに異議を唱える者はいないはずである。我が国日本の司法制度を批判は、我々日本人に、「盗人にも三分の理(ぬすびとにもさんぶのり)」という諺を思い出させる限りであり、聞くに堪えない。これらがほぼ全テレビの主張である。

  しかし、長く「ソクラテスの弁明」の愛読者であった僕は、ソクラテスがヘンテコな裁判の評決に従って毒杯を飲まないで脱獄してくれたほうが良かったと思っている。そう思うことは、間違いだろうか。

  

  緒方貞子が昨年他界した。彼女の死は、数年前、軽井沢のご近所の餅つき大会で、集会所でお元気に話されているのを見たから意外だったが、お年を考えると仕方がないかもしれない。台所から国連へ、ではないけれど、聖心を出た典型的なお嬢様が無邪気に難民問題に取り組んだという見方もあるかもしれないが、彼女のおかげで助かった数多くの生命があった、ということは事実であろう。一般にみるフェミニストについては、こっちとしたら、どうも、えへへ、であるが、彼女の行動は、男女差別の無意味性をものの見事に証明している。その緒方がクルド人難民問題で言ったとされる名言がある。

  「ルールより生命(いのち)」

  

  確かに、例えば「帰国させられれば、非合理的な制度の下で処刑される」と怯える脱北者に対して、「その自国の法律に従った出国手続きをしていない者が『非合理的』とはよくも言ったものよ。盗人にも三分の理とは、このことだ。」として、当然にして当該国の政府に引き渡すことは難しいのではないか。

  

  さて、会計の世界では、「離脱規定」というものがある。国際財務報告基準でも、その規定は明文されている。これは、いってみればルールに従うことがかえって当該ルールを定めた目的に反することになる場合には、ルールから外れてよい、というほどの意味である。この思想の驚くべき点は、「the entity shall depart from that requirement(IAS1⑲)」とshallが使われているところで、つまり、正確には、外れてよい、ではなく、外れるべきである、という強い要請の規定ぶりである。

  この発想に基づくならば、逃走劇、例えば次のように考えられまいか。それは、「逃亡しなければ果たせない『日本の刑事司法制度の欠陥』があるか否か。であれば、人質司法は勘弁してもらいたい、人権の配慮がない、といった主張の真偽を考慮することが、今回の逃亡劇の正当性の判断に欠かせないこととなる。2つを分別して考えるなどは、もってのほかである。

  さて、テレビ画面に映る自信満々のコメンテーター諸氏を見ていると、ゴーンの記者会見に日本のマスコミ3社だけが許されたこと、そして、それについてゴーンが、日本のマスコミの多くが検察の宣撫工作機関になっている、というようなことを述べたことについて、彼らが口を閉ざす理由が分かる気がする。

  一方で、日本での国際財務報告基準の適用は、日本の公認会計士諸氏にあって、まだまだととても手に負えるものではない、と怪しまれるのである。

  

  形部直道

  2020年1月12日

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